山佐ネクストは今、
マラソンでいえば
第3グループの位置にいます。
PiDEA X編集部(以下略編):華麗なる佐野一族の御曹司として生まれ、どのような幼少期を過ごされましたか。業界に入ったきっかけなども教えてください。
佐野詳一代表取締役(以下略佐野):小学校低学年までは当時本社があった岡山県新見市で育ちました。自然が多く、毎日川遊びと公園で野球をしていた記憶があります。そこから今の岡山市内に移りましたが、野球ばかりやっていた記憶しかないですね。まだ父親の会社が何をしているのかも知らず、実家も賃貸でしたし、何か特別とかの認識はなかったですね。
編:地元で有名な豪邸とかをイメージしていました。
佐野:皆さんの期待を大きく裏切るくらい普通です。父(山佐株式会社、佐野慎一社長)も、業界では有名みたいですが、かなり質素な生活スタイルだと思います。同じ車を20年以上乗っているし、岡山東京区間以外は新幹線もグリーン車には乗っていないと思います。
編:経歴を拝見すると、アメリカへ留学もなされていたとか。
佐野:高校生の途中から岡山を出てみたくなりまして、17歳の時にアメリカの高校に編入しました。
編:英語は喋れたんですか。
佐野:まったく話せませんでした。ただ、野球や陸上をやっていましたので、言葉は喋れなくても、特に辛いことはなかったですね。中距離走が得意で、話せないのにキャプテンをしていました。アメリカは何か人より秀でていることを尊重してくれるので、過ごすには日本よりも楽に感じます。
編:留学先のアメリカでは何を学んだのでしょうか。
佐野:大学もアメリカの大学に行きまして、結局7年間おりました。大学はニューヨーク州にある工科大学でコンピューターサイエンスを学びました。当初アメリカに渡った時は、何かスポーツビジネスの仕事をするのが夢でした。ただ、ちょうどWindows95が発売されて高校でもレポート作成や調べものはパソコンの時代になり、触っていくうちにコンピューターが持つ可能性に夢中になりました。結局、大学もコンピューター関係の道に進みました。時代ごとに学ぶ言語や流行りが変わりますが、当然プログラミングは学びつつ、私の時代はアルゴリズムやネットワーク関連の授業が多かったですね。
編:ご卒業後はどうされたんですか。
佐野:卒業後は日本に戻り、日本オラクルというデータベース関連の会社に入社しました。在籍期間は3年間でしたが、通信会社や銀行のシステム構築プロジェクトで自社製品のデータベースコンサルタントの仕事をしていました。仕事の内容はいかに効率的にデータにアクセスして、早く結果を出すかのチューニング作業がメインでした。地味な仕事に聞こえるかもしれませんが、普段皆さんが利用するシステム開発に関われることができて楽しかったですね。
編:山佐以外に就職されていたのですね。でも、やはりいつかは「山佐に」という考え方があったのでしょうか?
佐野:アメリカの大学は3カ月夏休みがあるのですが、日本に帰ってきて友だちと遊んでばかりいました。それに見かねた父から「毎日フラフラしているんだったら会社に来て勉強しろ」と怒られまして、今でいうインターン的なことをやらされました。最初の年は携帯向け公式サイトの運営チームに入り、シミュレーションアプリやリーチ目チェッカーアプリなどのデバッグを手伝いました。そこで初めてパチスロを知りました。手伝っていくうちにだんだんとパチスロの知識が増えて、実際にホールに行って目押しができた瞬間からハマりましたね。インターン後半は会社には行かずにパチンコ店に通ってましたね。今思えば、当時担当してくれた社員には大変申し訳なかったですが、そのおかげで今があると思っています。最初に触った機械は「タイムパーク」です。
編:それがきっかけで入社されたと。
佐野:そうですね。在学中にパチスロが大好きになったのですが、まだそのころは趣味としてしか考えておらず、コンピューター関係の仕事がしたかったので他の会社に就職しました。ただ、前職入社後の数年で5号機時代が到来して、4号機が徐々に撤去されていく中で、業界が大きく変わっていくことを目のあたりにしました。そこで、本格的に5号機時代が始まる前に、父に「時代の変化を実際の現場で見たいから山佐に入れてほしい」と頼みました。それが27歳の時です。